皮肉にも将来、人類を真に救うべきものは現代の宗教では駄目で現代科学なのだ。
なぜなれば、科学は物理の法則から成り立ち不変不動であり、いかなる宗教者もこの法則を打ち破ることはできないからだ。
思えば一人の聖者が世に出て真理や真理ゆえの法を説き、その法は完全なるがゆえに四通八達に解釈できるが、弟子たちの心の狭さのゆえに解釈に偏りがあり、互いに偏った意見で対立するから分派せざるを得なくなるのだ。
それではその理由を私の著書を引用して教えよう。
例えばここに一粒の麦の種子があるが、この種子は生の終末であり生のはじめである。死のはじめであり死の終わりである。
生の終末であり死のはじめである。死の終末であり生のはじめである。
生の実相であり死の実相である。生の仮相であり死の仮相である。
親であり子であり、子であり親である。
はじめであり終わりであり。
終りでありはじめである。
すべてであり一部であり、一部でありすべてである。
因縁の塊であり、真理の結晶である。
その生命は個の名において有限であり、種の名において永遠である。
どうだろうか?あなた達は一つの問題をここまで拡大し、ここまで掘り下げて推理したことがありましたか?
もっと簡単に説明しよう。
あなたは海岸に打ち上げられた貝殻を観て命の儚さを感じ、海に入っては無数の貝が生きるのを観て生命の逞しさを感じるが、一体どちらが本当なのか
知で真理を追う者は頭で理解して悟ったといい。心で追う者は理解よりも心で体得し、感動してその境地を味わうが、頭で理解する者と心に体得する者、そのどちらがよいのだろうか。
私はこう想う。頭で理解する者が死ねば脳と共に消滅するが、魂に刻むものは永遠ではなかろうかと。